1. 女児型セックスロボット禁止は性犯罪を抑止するのか?

女児型セックスロボット禁止は性犯罪を抑止するのか?

thehorriblejoke / Pixabay

 

女児型セックスロボットの輸入禁止

まずはこちらの記事をご覧いただきたい。

女児型セックスロボットは社会の敵|ニューズウィーク日本版

まず「そんなロボットがあるのかよ」
というところでびっくりなのだけれども、

「人に似せたロボット」というのは
これからどんどん精密に作られていくだろうし、

こういった問題も、
SF作品の世界だけの問題ではなく、
リアルな問題として現れてくるんだろうなぁと
思う。

攻殻機動隊というSFアニメで、
セックスロボットがハッキングされて
人を殺すというシーンがあった気がする。

そういう世界が目前まで来ているんだなぁ、
と思う。

 

 

「危ないコンテンツは禁止すべき」という考え方

こういう
「なんだかヤバそう」なコンテンツ
が生まれると、

必ず「危険だから禁止するべきだ!」
という意見が現れる。

例えば、

犯罪を模したAVやエロ漫画もそうだし、

性的なコンテンツ以外でも、
人を殺し合うゲームなども言われてきた。

 

そう言いたくなる感情は、とても良くわかる。

 

これから先、
さらに技術が発展すれば、

自宅の3Dプリンタを使って、
盗撮したスキャンデータから
実在する子どもとそっくりの人形を作り出す‥

なんてことも
おそらく簡単に出来るようになる。

 

近所のおっさんが、
自分の子どもそっくりの人形を勝手に作って
性的ないたずらや殺害を擬似的に楽しむ‥

なんてことを想像しただけで、
怖すぎるし、
気持ち悪いし、
マジで勘弁してほしい、

だから、
「そんなことは全て禁止すべきだ」
という考えは、よく分かる。

被害を受ける可能性がある側に立てば
そりゃそう思って当然だよなと思う。

けれども、
心の側面から考えた時に、

果たして禁止をすることが、
犯罪の抑止に本当につながるのか?

というのが、
今回のコラムのテーマである。

 

 

人間はなぜ犯罪を「思いとどまる」のか

人間は、犯罪行為と隣合わせである。

ムカつく人がいれば
「ぶん殴ってやりたい」
と思うし、

欲しいものがあれば
「手に入れたい」
と思うし、

魅力的な女性がいれば
「おっぱい揉みたい」
と思う。

 

「そんなことを思うべきではない」
というのはその通りなのだけれども、

「思ってしまう」ことは
自動的に思ってしまうのであって、

思いたくて思っているわけではないので、
どうしようもない。

(こういった思ってしまう思いを「一次意識」と呼ぶ)

 

けれども、
そのような「犯罪的な思い」を
思ってしまったとしても、

人間は、その通りに行動するとは限らない。

 

多くの人間は、
「犯罪的な思い」が浮かんできたとしても、

『そんなことをしてはいけない』

『相手を傷つけてはいけない』

『そんな人間になってはいけいない』

…などと考えて、

「思いとどまる」ことをするからだ。

 

そうすることで、
「犯罪的な思い」は
思いのままで心の中にとどまり、

実際に犯罪行為が行われることはない。

 

このように
勝手に思ってしまう一次意識に対して、

自主的・主体的に
「思いとどまる」ことをする意識のことを
二次意識と言う。

多くの人間は、
この二次意識が社会的に機能しているから、

「犯罪的な思い」がありながらも、
それを実際に実行することなく、
平和に生活することができている。

 

乱暴な言い方をすると、

「犯罪的な思い」などと言うものは、
種類は違くても、
誰にでも普遍的に持っているものであって

「犯罪的な思い」があること自体が
問題なのではなくて、

「犯罪的な思い」を
自己コントロールする
「思いとどまる思い」
が機能しているかどうか、
が問題だということである。

 

「禁止」は「思いとどまる思い」にアプローチしていない

さて、冒頭の
「女児型セックスロボット禁止」
の話題に戻る。

セックスロボットと交わるうち
倫理観が曖昧になり
本物の子供に手を出したくなる

というのが、禁止の大きな理由だ。

 

「犯罪的な思い」
を擬似的に体験することで、

現実世界における
「思いとどまる思い」
が消失するだろう

だから
犯罪を疑似体験させる装置は、
犯罪を助長する

という考えである。

 

ここだけ見ると、
なんだかその通りな気がしてくるが、
この論には、重大な心理学的要素が欠けている。

それは「主体性」である。

 

「思いとどまる思い」あるいは「倫理観」は、

自主的・主体的に
「そう思おう」として思うものである。

自主的・主体的に思っている思いは、
そう思おうとし続けている限り消えない。

『セックスロボットはOK、
でも現実の子どもはダメ』

『ゲームで殺すのはOK、
でも現実で殺すのはダメ』

こういう明確な線引きを、
自主的・主体的にすることが
まさに「倫理観」であって、

セックスロボットを禁止することが、
倫理観の確立にはあたらない。

 

もし

『セックスロボットとしているうちに、
現実の子どもともしたくなっちゃた』

『ゲームで殺しているうちに
現実でも殺したくなっちゃった』

という人間がいれば、

それは、
「ただ、やりたいことを、やっている」
だけであって、

そもそも最初から
「思いとどまる思い」や「倫理観」
が乏しい人間である。

 

もっと言うと、
「思いとどまる思い」が乏しいと、

セックスロボットが無くても、
いつかは子どもに手をだすし、

人殺しゲームが無くても、
いつかは人を殺す。

 

大切なことは、
そうなる前にいかにそれをキャッチして、
犯罪を防止することが出来るか、
ということである。

 

その犯罪防止において、
セックスロボットやコンテンツの「禁止」は、
犯罪を防止することにならないし、

むしろ「禁止」することで、
犯罪を防止する機会を失う
ことになりかねない。

 

倫理のハードルを上げすぎることの弊害

倫理のハードルを上げすぎると、
逆に犯罪が起きやすくなる危険性がある。

これは2つの理由から考えられる。

犯罪の危険性をキャッチする機会を失う

もし、今回の禁止とは全くの逆で
女児型セックスロボットを社会的に認めて、

「女児型セックスロボット愛好会」
的な集団が出来たとしよう。

 

それは傍から見たら
非常に気持ち悪い趣味の集団なのだが、

その集団の中で
コミュニケーションが起きることで

『セックスロボットはOK、
でも現実の子どもはダメ』

という倫理観がしっかりあるのか

『セックスロボットとしているうちに、
現実の子どもともしたくなっちゃた』

という危険な思考の人なのか、

それがオープンになる機会が
自然と作られることになる。

 

これがセックスロボットが禁止されていて、
そういった願望がありながらも、
隠し続ける必要がある状況になると、

危険な思考の人が
実際に犯罪を起こすまで発見されない
という状態になる。

 

禁止することで
逆に見えない世界に潜り込んでしまうのである。

 

犯罪までの心理的抵抗が逆に下る

もう一つは、

「セックスロボット禁止」
とすることで、

「誰にも迷惑をかけないんだから、別にいいじゃん」

という軽い気持ちで
禁止を破る人が出やすくなるということである。

 

この

「別にいいじゃん」

は犯罪抑止において、
非常に危険な思考パターンである。

なぜなら
「別にいいじゃん」は
自主的・主体的な二次意識だからだ。

 

犯罪を起こす人は、
自主的・主体的に
「別にいいじゃん、やっちゃえ」
と思って、犯罪行為に至る。

 

セックスロボット自体が、
実際には誰にも危害を加えないとしても、
それを禁止されることで、

「禁止されている法律を破る」
という主体的行動を経験させる機会
を作ることになる。

逆に誰にも危害を加えないからこそ
法律を破る抵抗感も少なくなる。

そして一度、
自主的に法律を破る経験をすると、
次に、より重大な法律を破る際の抵抗感

すなわち、
実際の子どもに手を出す際の抵抗感が下がってしまう。

 

それでも、
前述した「思いとどまる思い」が
しっかりとある人は、
そこまでは行かないだろうが、
(歩行者で信号無視はしても、
車では信号無視はしないようなもの)

しかし、
ここで問題にしているのは、
そもそも「思いとどまる思い」
が乏しい人の場合である。

 

「思いとどまる思い」が乏しい場合、
不必要に禁止を強めすぎて
その禁止を破る経験をつくってしまうことが

より重大な禁止を破る際の
心理的抵抗を下げてしまうのである。

 

「臭いものに蓋」ではなく「適切な対処」を

「見たくないものを排除したい」

「とにかくダメだと禁止したい」

という気持ちは、
個人的な感情としてはよく分かるが、

果たしてそれが
「本当の安全」につながるのか、
というと、そうとは限らない。

 

むしろ

「見たくないものを見据える」

ことで、

そこに適切な対処をする機会
が生まれるのではないだろうか。


執筆:臨床心理士 髙橋雄太
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