1. 川崎殺傷事件について心理カウンセラーとして思うこと

川崎殺傷事件について心理カウンセラーとして思うこと

pixel2013 / Pixabay

2019年5月28日、川崎市で起きた無差別殺傷事件。

とても痛ましい事件に、私自身ショックを受けていて、ここ数日いろいろと考えを巡らせています。

それはもちろん私だけではなく、この事件を知った多くの人たちが、大きなショックを受けて、いろいろなことを考えて、SNSやネット上の記事などで、発信をされています。

この記事も、そのような記事の一つです。

私は心理カウンセラーですから、心理学的な視点から、少し書いてみたいと思います。

まずはじめに、この記事を誰に向けて書くかということを、明確にしておきたいと思います。

この記事は、事件とは直接関係のない、けれどもこの事件の報道を見てショックを受けた、第三者に向けて書いていきます。私もその第三者の1人です。

  • 第三者として、この事件をどう考えていくか?
  • そしてこれから先このようなことが起きないように、第三者である私たちにできることは何か?

そのようなことを書いていきます。

事件に直接関係された方、特に被害者の方々にも、できるだけ配慮した言葉を選びたいと思いますが、見方によっては、やはりどうしても、この記事の表現でさらに傷ついたりショックを受けたりするかもしれませんので、心配な方は、この先は読まずブラウザを閉じて頂くことを、おすすめします。

 

 

急性ストレス反応

心理学的に考えて、まず言っておかなければならないことは、この事件はとてもショッキングな事件だということです。

「何をあたりまえなことを」と思われるかもしれませんが、これはとても重要なことです。

ショッキングな事件を知った時、私たちは当事者でなくても、非常に動揺します。

この動揺は、心理学的には、「急性ストレス反応」と言われるものです。

「ありえない」
「そんなことがあっていいのか」
「信じられない」

という気持ちの動きは、当たり前だと思っていた日常の安定が壊されたことによるショックであり、ストレスです。

このストレスに対抗するために、私たちの心は「急性ストレス反応」という反応を起こして、日常の安定を取り戻そうとします。

具体的には、
「動揺、混乱」
「呆然、唖然」
「状況を理解するために調べる」
「逆に情報をシャットダウンする」
「対策を考える」
「逆に考えないようにする」
「思ったことを話やネットで伝えたくなる」
「逆に何も言わない」
「また起きるのではと不安になる」
「自分は関係ないから大丈夫、と安心する」
「犯人に対する怒り」
「他の人の意見に対する怒り」
…などなど

その行動が、望ましいかどうかはさておいて、
大切なことは、これらの行動は、すべて「安定した日常に戻るための自分なりの努力」であり「急性ストレス反応」だということです。

「急性ストレス反応」は、健康な反応ですので、心配をする必要はありません。

よくある誤解としては、「急性ストレス反応」は良くないことだから、それが早く無くなるように援助や治療をしなければならない、という考えですが、これは全くの誤解です。

実際はその逆で「急性ストレス反応」を体験することを通して、人間の心は安定して、平常心に戻っていきます。

「急性ストレス反応」は「安定した日常に戻るための自分なりの努力」ですので、その動きを無理に止めてはいけません。(もちろん何か危険を伴う場合は別ですが)

数日もすれば、自然に少しずつ落ち着いて「安定した日常」に戻っていくでしょう。

で、その「急性ストレス反応」が何なのかというと

ネット上でこの川崎殺傷事件を巡って、交わされている意見・批判(時には罵倒)なども、やはりそれぞれの人がそれぞれの人なりにやっている「日常に戻るための努力」だということです。

例えば、
事件の犯人が自殺したことに対して
「1人で死ねよ」
と言ったこと。

確かに、1人で死んでくれたら、こんな凄惨な事件にはならならなかったでしょう。
だから「1人で死ねよ」と言うことは、それはその人なりの安定のための対処です。

で、それを聞いた人が
「そんなことを言うから、社会に弾かれた人は、社会を恨んでこのような事件を起こすんだ」
と言ったこと。

確かに、犯人が社会を恨まなければ(恨んでいるかどうかはまだ明らかになっていませんが)、このような無差別事件は起きなかったかもしれません。
だから「そんなことを言うのは止めようよ」と言うのも、その人なりの安定のための対処です。

「急性ストレス反応」という意味では、
どちらも等しく変わりません。

そいういことを言うことで「日常に戻るための努力」をそれぞれがしているのです。

なので、心理カウンセラーとして言えば、
「1人で死ねよ」であろうが、
「そんなことは言うな」であろうが、
誰かの個人情報や、特定の個人を狙って傷つける言葉でなければ、
どんなことでも好きに言えばいいんじゃないかなと思うのです。

そして、
それを受け取る側も、
「まあ、この人もショック受けて、こう言う風に言ってんだな」
くらいに思っておけばいいんじゃないかな、
と思うのです。

で、その上で、
「でもやっぱり私はこう思う」というのがあれば
それはそれであってよいのです。

それが自分なりの「日常に戻るための努力」なのですから。

「ブレインストーミング」という会議の手法がありますが、
そういうような心構えでネットやSNSを利用すると
少し心に余裕を持てて良いんじゃないかなと思います。

さて、前説が長くなってしまいましたが、
私も私なりの「日常に戻るための努力」の結果として考えたことを
ここに書いておきたいと思います。

 


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人間は、協力し合う生き物

「人間は協力しあうことで生きていける生物である」
と言われています。

確かに、1人の人間の力は、大したことがありません。

普段の生活で利用している、電気やガス・水道、食べ物や、住む場所、着る服、スマホ、ゲームなどは、全て自分以外の誰かが作ってくれたものです。

ゼロから何の道具も利用せずに自分1人だけの力で作り上げたもの、というのは、ほとんど無いのではないかと思います。

人間という生物は、
基本的に、他者を信頼し、協力し合うことで、より豊かになる生き物なのです。

無差別殺傷は人間社会の前提を壊している

人間は協力し合うことで、生きていける生き物です。

人間がお互いに協力しやすくするように集まった集合体が社会です。

人間の社会は、お互いが信頼し合うことで成り立っている社会です。

もし電車で隣に座った人が、急に包丁で刺してきたら
もしレジの店員さんが、急に包丁で刺してきたら
もし宅配便のお兄さんが、急に包丁で刺してきたら

そんなことが起こる様では、
恐ろしくて、他の人間と協力し合うことなど、できません。

人間は、他の人間と協力することで、生きていける生き物ですから、
他の人間と協力できなければ、人間という種はやがて絶滅するでしょう。

無差別殺傷事件というのは、
そのような人間社会の前提を壊す問題です。

すなわち社会の存続に関わる
社会全体の問題なのです。

社会全体で考える必要がある

ある犯罪が起きた時、それを犯人個人の問題として、犯人を断罪することで一件落着するのであれば、それはそれで一つの解決法としてありかもしれません。

しかし少なくとも、無差別殺傷事件は、そういう種類の問題ではありません。

このようなことは
もう二度とないようにしなければならない。

犯人を断罪すること【だけ】で
一件落着する問題ではないのです。

どうしたらこの様な事件が防げるか、
社会全体で考えていく必要があります。

動機をつくらせない方法

刃物にしても、車にしても、あるいは電車のホームという場所でさえ、
それは使い方によって、人を殺す凶器になります。

無差別に人を殺そうとする人間は、手段を選ばなければ、どんな方法でも、無差別に人を殺すことが出来ます。

今回の事件も数秒の出来事だったそうですが、
無差別に人を殺そうとする人間を、
とっさに止めることは不可能でしょう。

このような事件を防ぐためには
「犯人を止める方法」ではなくて
そもそも「犯人を犯人にしない方法」を

つまり「動機を作らせない方法」を考えなければなりません。

そのためには、
犯人を断罪する【だけ】ではなく

  • どのような動機でそれをしたのか
  • その動機を持つに至った背景は何なのか
  • その背景をいかに解決できるか

まで、考える必要があるのです。

「何が悪いか」から「何ができるか」へ

最初に書いた通り、
これだけ日常的な安全が揺るがされる事件が起きれば、
その反応として、
誰かを責めたくなることも自然なことです。

そうすることで私たちは、
自分の心の安らぎを回復しようと試みるものです。

ですが、
何かを「悪い」とすること【だけ】では
やはり状況は変わっていきません。

どのような背景で
今回の事件が起きたかはまだ不明ですが、
その背景が続く限りは
「次の犯人」が出てきてもおかしくない状況は続くのです。

また同じことが繰り返されないように
私たち一人一人が「何ができるか」を
考えていく必要があるのではないでしょうか。

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執筆:公認心理師(臨床心理士) 髙橋雄太

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