価値観が崩壊した時代のカウンセリング

単一の価値観に縛られていた時代の話

昔は「学校に行くことは当然」「誰とでも仲良くつきあい波風を立てないことが素晴らしい」「働きざるもの食うべからず」などなど、多くの人が「これが良い」と考えるような、単一の一般的な価値観があった。

このような時代の中で、その一般的な価値観に合わない人・合わせられない人は、罪の意識に苛まれたり、形見の狭い思いをしながら生活するか、あるいは逆に強い態度で「世間一般」に対抗しながらアウトローとして生きていくしか無かった。

単一の価値観に縛られた時代における心の問題

心理支援の領域では、単一の価値観に縛られていた時代では、一般的な価値観に合わせられないことで、不適応感を抱き苦しむケースが多かった。

昔の不登校はまさにこのパターンだ。

「学校に行くことは当然」という価値観がまずあり、大人も当たり前のように学校に行かせようとするし、本人も学校に行かなければならないと思っている。

何らかの理由で学校に行くことが辛くなると「行きたくない」と思う反面「行かなくちゃいけない」と一般的な価値観からのプレッシャーもかなり感じて、その間に挟まれて葛藤が高まり、それが「腹痛」「頭痛」などのストレス反応として現れることで、結果として、学校に行けない状態になる。

通常の身体の不調では、身体を休ませたり身体の治療をすれば身体の状態は良好になる。しかし、葛藤によって体調不良が発生している場合は、ただ身体を休ませるだけでは体調不良は回復しない。なぜなら「学校に行くことは当然」という社会からのプレッシャーが基本的にあるので、休んでいる時でも「本当は学校に行かなくちゃいけない」「このままではダメだ」などと考えて自分自身を責め続けるからだ。

休むことで社会からのプレッシャーがさらに強くなり、葛藤がさらに高まり、そのストレスによって「頭痛」や「腹痛」が延々と持続する悪循環に陥ってしまう。

これが「昔の」不登校のパターンだった。

単一の価値観に縛られた時代におけるカウンセリングの意味

このような悪循環によって不登校が持続する子ども達に対して、カウンセラーがどのような関わりをしたかというと、「あなたは頑張り屋さんだから、これまで辛い中で一生懸命に頑張りすぎて心の電池がなくなってしまった。今は電池が空になっているから、無理に行こうとしても難しい。むしろ逆に今は学校に行こうとすると電池を消耗してしまっていつまで経っても充電が貯まらないから、今は学校に行こうとすることはやめて、とにかくボーッとして心の電池を充電しなさい」などと【もっともらしい理屈】をつけて、『学校を休むことは仕方のないことで、今はこれでいいんだ』と思えるようにサポートをした。

そのようにして「学校に行くことは当然」という一般的な価値観からのプレッシャーの影響を抑えることで、葛藤状態が弱まり、結果的に「頭痛」や「腹痛」などのストレス反応が消失する、というのが基本的な不登校のセオリーだった。

ストレス反応が収まれば、「学校に行きなさい」などとわざわざ言わなくても「学校に行かねばならない」と言う常識が自他共にあるので、建設的な方向で話が進みやすくなり、いつの間にか学校にも行けるようになっていた。(もちろん本来の辛い状況(いじめや学力不振)に対する、外的な対処もした上で、だが)

単一の価値観が崩壊した時代

さて、ここまでが「昔の」不登校の話、すなわち「単一の価値観に縛られていた時代」における心の問題の話だが、ここ10年くらいの間で、この状況はかなり変わってきている。

多様な価値観が生まれ、それぞれの価値観を尊重し合うことが重要であるという認識が次第に強まったことで「絶対的に正しい、単一の価値観」などというものは「もう存在しない」ということが、誰の目から見ても明らかになっている。

不登校でいえば「学校に行くことは当然」などという価値観は、そう思っている人はいたとしても、「そう思っている人もいるよね」と言う多様な価値観の一つに過ぎず、決して絶対的なものではもうない。

一般的な学校に行くという以外にも、フリースクールに行く選択や、家庭で学習をするという選択もある。不登校になったからといって、高校や大学から何も問題がなかったかのように復活する人もいれば、学校など行かずに別のルートで仕事を得る人も珍しくない。あるいは、働かずにニートとして生きていくという選択肢だってある。

人の生き方は多様であり「〇〇の生き方でないといけない」などということは、もう誰にも言えない。言っても白々しい嘘にしかならない。

これが現在の「単一の価値観が崩壊した時代」あるいは「多様な価値観が当たり前になった時代」だ。

この時代における不登校は、「学校に行かなくちゃいけない、でも行けない」と思い葛藤を抱える子どもはむしろ少数であって、「嫌だから行きたくない、だから行かない」「学校に行く意味がわからない、だから行かない」と自己選択で不登校を選んでいる子ども達が増えてきている。

葛藤がないので、家では自由に生活をし、身体症状も現れず、かと言って「学校に行かなくちゃいけない」という思いも無いので、自然と学校に行けるようになることも無い。このような状況に対して『充電が今は必要』などと旧来的な関わりをしても、言われた子どもとしても「いえ、もう満充電ですけど」という感じである。

それでは、たとえ学校に行かなかったとしても、本人に葛藤がないのであれば、そこには実は何も問題はなく、学校に行かない生き方を認めてあげればそれで良い…ということで万事OKかというと、そう単純な話ではない。

単一の価値観が崩壊した時代における心の課題

単一の価値観に縛られずに、社会的な不適応をある意味では自己選択した人の心の中にあるものは、多くの場合は、充実感や安心感ではなく、むしろ空虚感や不安感である。(もちろん自己充実している人も中にはいるが、その違いはこの後に述べる)

この空虚感や不安感は、単一の価値観から(あるいは社会一般的な状況から)外れてしまったことに対する感情【ではない】。

むしろ逆に、絶対的な価値観など存在しない、よりどころとなる価値観が存在しないことに対する「空虚感」や「不安感」である。

「学校は行きたくないから行かない。それはそれで良い、何も葛藤していない。」…けれどもだからといって学校に行かないことを選択する代わりに「これから先、何を大切にして生きていったらいいか分からない」のである。

逆にいうと、自分のよりどころとなる価値観さえ自分の中ではっきりしていれば、不登校だろうがニートだろうが、自己充実して生活をすることは出来るだろう。これが前述した、同じ不登校でも、空虚感や不安感を感じている人と、自己充実や安心感を感じられている人との違いである。

そして、この多様性の時代に、絶対的な価値観が存在しない時代に、みんなと同じであることでなんとなく安心できることから外れて、自らの力で自らの指針となる価値観を作り上げていくことは、むしろかなり精神的な健康度・成熟度が必要とされることであることは容易に想像がつくだろう。

単一の価値観が崩壊した時代におけるカウンセリングの意味

単一の価値観が崩壊した時代において、カウンセリングの役割は旧来的な、その人のありのままのあり方を認めると言った「受容的な関わり」だけでは不十分である。

「社会の価値観に縛られて自分のことを認められない」のではなく、「自分が認められる価値観が社会のどこにも存在しない」ことが問題なのである。

旧来的なカウンセリングでは、カウンセラーは中立的であるべきで、カウンセラーの価値観を押し付けるべきではない、ということが揺るぎないスタンスであった。

けれども、この時代で、本当にカウンセラーは中立的であることが望ましいのだろうか?

カウンセラーの持っている価値観などたかが知れていて、カウンセラーがそれを言ったからと言って(あるいは他の権威のある人がそれを言ったからと言って)それが「絶対的」であることなどあり得ないことはもうみんな分かっている。あり得ないからこそ、人はそこに空虚感や不安感を感じざるを得ない。

であれば、カウンセラーが中立性を保つメリットなどもうほとんど薄れていると考えて、むしろ多様な価値観があることが前提の上で、「あなたの話を聞いていて、私の個人的な価値観だとこう思うけれども、あなたはどう思う?」とカウンセラーも自然と態度表明をした方が、クライエントが自らの価値観を検討する「こやし」の一つにでもなるのではないだろうか。(ここら辺、オープンダイアローグの”ポリフォニー”や、クライエント中心療法の”純粋性”と繋がるかもしれない)

(当然、この考察自体も「絶対的」なものではなく、一口に不登校と言っても様々な個別の事情がそれぞれにあり全く当てはまらない場合も多々あることと、実際のケースでは個別の事情に合わせた対応が必要であることを付け加えておきます。またこの記事は個別のケースに言及したものではありません。)

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